カテゴリー: 子育てについて

教育のデジタル化 5/10中国新聞「エール」より

エヴァンゲリオンの世界の話だと思っていた「緊急事態宣言」、「ロックダウン」が現実になって1年がたつ。新型コロナウィルスのパンデミック(世界的大流行)は社会を大きく変えた。教育界も例外ではなく、想定外の学校休業を受け、学校も塾も緊急対応を余儀なくされた。

新時代教育の象徴として出番を待っていたICT(情報通信技術)は、子どもたちの学びを守る救世主として一気に時代の主役となった。対面指導、一斉授業ができない状況でも、指導を継続しなければならない。多くの学校や塾が、いや応なくタブレット学習、動画配信、リモート授業で対応した。当初は試行錯誤ではあったが、教師も懸命に取り組んだ。

その結果、旧態から抜け出し、新たな学習の形が成立したと言っていいだろう。タブレットを用いた学習コンテンツが駆使され、欠席してもリモート授業を受けることが日常になりつつある。まだ運用面において未成熟な部分はあるにせよ、教育のデジタル化が子どもたちの今後の学びの形を変えていくことは間違いない。

ではICTは学校や塾に取って代わるものなのか。否である。特に小学生の学習は、ある単元の考え方や解き方を学び、演習して身につければ、はい終わりとはいかないからだ。

人の振り見て我が振り直せの格言通り、集団の中で人から学ぶことは多い。隣の子の真剣な様子を見て、勉強する姿勢を学び、授業で周りの子の反応に刺激を受け、思いもしなかった発想に気付きをもらう。笑いや緊張もあれば、教師のしった激励もある。

子どもに最新のツールを与えさえすれば、よい教育環境を整えたことにならないと、親も理解してほしい。友人やライバル、教師と作るライブな空間が醸す空気の中で子どもは学び、成長する。GIGAスクール構想、ITC教育、大いに結構。学びの方法が高度化し、変化する教育改革を歓迎したい。ただそれはあくまでも教育ツール、メソッドだ。空間と空気の中にこそ学びがあるのは今も昔も変わらない。

中学受験の意味 3/1中国新聞「エール」より

広島都市圏の中学入試は松も明けぬうちから始まる。多くの受験生が第1志望とする「本命」の試験が集中する1月末まで、約3週間にわたる長期戦だ。

受験生はこの間、複数の学校を受験。まずは本番というものを知り、試験慣れしながら経験値を上げていく。ただ併願校とはいえ、その結果はメンタルに大きな影響を与え、プラスにもマイナスにも作用する。

Tくんの受験初日。前日から、はた目にも緊張が伝わり心配していたが、何とかA中学に合格。自信につながると思ったが、これが悪い方向に作用する。そう、初めて合格を手にし、浮かれてしまったのだ。その日から明らかに気が緩み、丁寧に学ぶ態度が消えた。彼は試験をなめた。

2校目のB中学は、すっかり緊張感をなくしたまま受けて不合格。両校とも第1志望ではないのに、合格と不合格という結果の間で彼の心は大きく揺れた。

このまま本命入試を迎えさせるわけにはいかない。T君を呼んで話をした。「なぜB中学は不合格だったんだろう」と問い掛けると、「ボク…真剣じゃなかった気がする…」。感心した。ちゃんと分かっている。「そうだな、君が不合格になるはずがない。心の隙を突かれた結果なんだろう。いいか、もう悔いは残すな」と背中を押した。

それからの2週間、彼は悔しさをバネに努力を重ねた。第2志望のC中学、第1志望のD中学の入試は目前に迫っていた。自分に「克つ」ことの大切さを知り、寸陰を惜しんで必死に闘う姿を見ていると、なぜか胸が熱くなった。

T君はC、D中学とも合格し、第1志望校への進学を決めた。彼は言う。「B中学の不合格がつらかったけど良かった気がする。だって、あれからスイッチが入ったから」。3勝1敗という数字に意味はない。B中学の1敗の痛みにこそ、成長につながる意味があったのだ。今日から3月。受験本番へ向けた新たな1年がもう始まっている。

「中学受験」~12歳 成長への通過儀礼

年明け早々、中学入試が開幕。とはいえ、この時期は前哨戦で、本命前の腕試しというケースが多い。ひとまず受験を体験し、実戦の勘を養おうというのだが、その割には前日から顔が引きつっている。

日頃、大人相手にどれだけ生意気な口をきこうとも、しょせんは12歳の子どもである。長い年月をかけて勉強してきた(全力投球したかどうかはおいといて)結果が問われる審判の場を前にして、心穏やかに、とはなかなかいかない。

なにしろ初体験である。あれやこれや親や塾の先生に忠告されても経験値がないため「実感」としてつかめない。ただ、「なんか、ヤバイ」という漠然とした危機感や焦燥感が日を追うごとに大きくなっていく。

これが二、三ヶ月前なら、「ま、いっか」で逃げていた彼らが、この時期にはもがき、あがく。体調が悪くても休まない。休憩時間も問題を解き、先生をつかまえてしつこく質問する。解けない問題を前に爪をかんで、ひざをゆする。時には出来の悪さに涙する。まさに寸陰を惜しみ、必死で戦う受験生の姿がそこにある。

こんな子どもたちをかわいそうと思う人もいるかもしれないが、僕はそんな子どもたちと出会うためにこの仕事をしていると言っても過言ではない。彼らの姿に成長のひとつの形を見るからだ。

痛みや苦しみを経験しなければ人は強くなれない。だが、現代は「純粋培養」され困難を経験しないまま大人になっていく子どもが増えている。受験は現代に残された数少ない通過儀礼のひとつではないか。受験を通して子どもたちは大きく成長していく。その成長は、受験=悪という図式だけにとらわれている人間には見えないものなのだろうと思う。

願わくば、努力と等価の結果を全員に与えてやりたいが、現実は必ずしもそうならない。いくら経験を積んでもこの非情さだけには慣れることはできない。

すべての受験生が悔いを残さず全力を尽くしてくれることを願ってやまない。

「承認の言葉」~課題修正の勇気与える

子どものやる気を奪うNGワードをご存じだろうか? 「何回言えば分かるの」、「前もそうだったでしょ」、「いいかげんにしなさい」、「もう知らないわよ」、「お父さんに言うからね」等々。その無神経で感情的な一言でいともたやすく子どもは傷つく。「えっ? それくらいで?」と思う人はすでに“重症”。さらにエスカレートする可能性もあるので要注意。

小学六年生の「国語王」と、誰もが認めるA君は漢字テスト満点合格の常連である。そのA君が先日のテストで半分の5点しか取れなかった。うつむいたままの彼が気になって、話を聞いてみた。

A君は前回のテストで算数の出来が悪く、お母さんから「いくら国語ができても意味はないでしょ。算数ができないと受からないのよ」と怒られたと言う。彼自身、国語に比べて算数が今イチでなんとかしないといけないと思ってはいたものの、絶対の自信を持っていた国語を「無意味」と完全否定されたことがとてもショックだった。一生懸命頑張っても意味がないならやるだけ無駄と、気持ちが萎えてしまうのも当然だろう。その結果の「5点」だった。

「テストの結果を見てカーッとなってつい」と言うお母さんもまさかわが子が自分の言葉でそこまで傷ついているとは思ってもいなかったらしく反省しきりだった。
子どもは親が思っているほど打たれ強くはない。否定の言葉にはことのほか弱く、私の長い塾教師生活の中でも、否定され続けて伸びた子は一人もいない。

子どもを伸ばすのは承認の言葉である。認められれば元気になる。その元気が修正すべき課題に取り組む勇気をくれる。そんなこと百も承知のはずなのに承認できないのは、親が期待のあまり、わが子の欠点ばかりに気を奪われてしまうからにほかならない。

「何言ってんだ、お前の国語ってマジですごいんだぞ」と言ってやったときのA君の顔は、きっと皆さんにも想像できるだろう。その少し照れた笑顔こそ承認の効果なのだ。

「カタコトの日本語」~単語でなく文で会話を

こういう仕事をしていると、昨今の問題視されている子どもたちの国語力の貧困さは手に取るように分かる。

「情けは人のためにならず」や「的を得る」といったことわざや慣用句の誤用(分かりますよね?)、「見れる」「来れる」などのら抜き言葉の乱用は彼らの十八番。とはいえ、これらを知識としてたたき込むだけならそれほど難しいことではない。ただ、表現力だけは一朝一夕でなんとかなるものではない。

「兄の一番の願いが母をふるさとに連れて行き、思い出のつまった鎮守の森を見せたいから」。読者にはこの記述解答のいびつさは一目瞭然だろう。主語と述語がつながっていない、いわゆる「ねじれ文」なのだ。「あなたの好物はケーキを食べますか?」ではなく「あなたの好物はケーキですか?」となるように、主語と述語が対応していなければ文意は正しく相手に伝わらない。具体的なデータがあるわけではないが、この「ねじれ文」、間違いなく「ら抜き言葉」並みにまん延している。これは俗に言う「単語会話」の弊害だと思われる。

「先生、トイレ」には「おれはトイレじゃない!」と返す。幼稚園児じゃあるまいし、“立派な”小学生ならちゃんと主語と述語の整った“文”で、「先生、トイレに行ってもいいですか」と表現しないといけない。

だが、このカタコトの「単語会話」で意思が通じてしまうのが現代社会。問題の根っこはここにある。大人が子どもの稚拙な表現をただすことなく、何を言いたいのか察してくみ取ってやるから、子どもたちは一向に改めようとしない。生まれつき表現力の優れた子どもはいない。大人が「何が」「だれが」「いつ」「どこで」「どうする」という質問で補ってやりながら、徐々に適切な表現を身につけていくものなのだ。

かわいい子どもに情けは無用。そう考えれば、「情けは人のためにならず」もあながち誤用とばかりは言いきれない。

勉強への父助言 ~ 押しつけ禁物 焦らずに

「父親の出る幕なんてないんですかね?」と暗い顔をして話すのは小6のF君のお父さん。

いよいよ受験学年。だが、成績は低迷中。そこで「あと1年」を機に、わが子の勉強法を分析してみた。すると、問題点がいくつも出てきた。コレがいかん、アレが悪い、こうしてみろと忠告すると、「わかったから、ほっといてっ!」と子どもにそっぽを向かれてしまった。その上、奥さんにまで「よけいなことしないで」と非難され、へこんでしまったという。

実は、母子二人三脚で進めている受験勉強に、父親が加わると、こうした摩擦が起こりやすい。

摩擦の原因は明らかだ。親子関係には文脈がある。これまで母親と子どもの間で作ってきた親子関係は良くも悪くも「できあがって」いる。そこに父親が文脈を無視し、別の基準を持ち込んでくれば当然「きしむ」。慣れ親しんだ親子関係が不協和音を奏でる。

父親がわが子の教育にかかわることに何の問題もあろうはずがない。ただ、母子の関係と自分の役割を無視して飛び込むのは危険だ。

伸び悩む成績を前に母子が何もしていないはずがない。きびしいバトルが何度となくあったろうし、計り知れないほどの悔し涙も流されているにちがいない。

その背景を知らないまま、口出ししても的外れなアドバイスになりかねない。いくら理屈が通っていても、一方的に押しつけては当然はねつけられる。わかっていてもできないわが子の気持ちを察してやり、父親は敵ではなく味方であることを示してやらなければ、子どもは聞く耳を持とうとはしない。

要するに、ちょっとした気遣い、心配りのできる余裕を持って子どもにかかわればいいのだ。だが、子どもと接する時間の限られた父親の場合、そのわずかな時間で一気に解決をはかろうとするために、失敗してしまいがちなのだ。

焦りは禁物。たとえ子ども相手であっても、良好な関係を築くのに「即席」は利かない。

親の役目 ~ たたかう子どもを見守ろう

「私はわが子に纏足(てんそく)をしているのではないでしょうか」この言葉を聞いたとき、親業とはいかに悩み多きものであるかをあらためて実感させられた。

纏足とは、幼児期から足を布で縛り、足が大きくならないようにするという、かつて中国で女性に対して行われていた風習である。無理やり指を内側に曲げて縛り、歩行の自由を奪うこの奇習は、強制・拘束・制限の象徴と言ってよい。

「わが子に良かれと思ってやっていることも、実は纏足をするように無理を強い、苦痛を与えるだけの独りよがりな愛情なのではないか」。そう思い悩むお母さんの心の中は痛いほどわかる。

中学を受験させることが正しい選択であったのかどうか、途中何度も自問する親は少なくない。友達が元気に遊んでいるのを横目に見ながら塾へ行かせるとき、見たいテレビやしたいゲームを我慢させて机に向かわせているとき、成績が低迷して頭にきてひどく怒ってしまったとき、親は自分の選択に自信が持てなくなるようだ。

だけど心配ご無用。子どもはこの程度の選択でどうこうなってしまうほどヤワな生き物じゃない。挑戦や試練は子どもが成長していくために必要不可欠な要素。つまずいたり、ぶつかったり、すっころんだりして、痛い目に遭いながら、また立ち向かっていくことを繰り返すことで強くなっていく。勉強だけが特別なのではない。スポーツも音楽も芸術も本気でやれば好きだけじゃあやっていられない。つらいことは山ほどある。

親の役目はたたかう彼らをほったらかしにせず、見守って、いざというときに支えてやること、それさえしっかりしていればOKだと思う。

ただ、この選択の可否が合格と不合格という結果でのみはかられると考えるのなら、子どもにとってつらいばかり苦しいだけの纏足になる可能性はある。纏足にするかしないか、要は親の考え方ひとつなのかもしれない。

待てない現代人 ~ 教育、子育て あせらず

「現代人は待てなくなった」と言われる。高速交通網の整備や携帯電話の登場が人から待つ時間を奪った結果、待つという行為自体が困難になったという。こうした現代社会の在り方が背景にあるらしいが、待てない風潮は教育や子育ての世界でも例外ではない。

1週間前に国語の読解力強化の相談を受けたばかりの小6受験生の父親から再度のご相談をいただいた。「先生に言われたように毎日問題を解かせてみたが何の効果も出ない。ウチの子には国語のセンスがないのではないか」と半ばあきらめ気味におっしゃる。まだ始めて1週間、そんなにすぐ結果は出ない。だが、その父親にとっては「まだ1週間」が「もう1週間」になってしまう。それを「センスがない」という一言で片付けられたら子どもの立つ瀬がない。

勉強における時間と結果の相関は、1時間勉強したから1時間分、1週間教えたから1週間分成績が良くなるという等価交換的なものではない。また、子どもは皆同じではなく、早生も晩生もいるはずなのだが、最近は短い時間で結果を求める親が増えてきた。

内田樹氏が『下流志向』で、「世の親たちにとって子どもは自分の製品であり、親の成果は製品にどんな付加価値をつけたかによる。だから目に見えるかたちで、数値化でき、定量的に評価できるかたちで成果を出すことにせかされ、プレッシャーを感じている」というようなことを指摘していたが、おそらく内田氏の見方は正しい。

だが、いくら親があせったところで、子育ては親の勝手で促成栽培の効く代物じゃない。「以下省略」みたいなごまかしはしないで、結果が出るまで愚直に積み上げるプロセスを大事にしたい。

プロの技を持った塾教師といえども魔法使いじゃない。結果を出すには、それなりに積み上げていく時間が要るのは変わりはしない。もしすぐにでもなんとかなりそうな気にさせられたらそれは幻想。甘い言葉にのって痛い目に遭わないようにご注意のほど。