カテゴリー: 受験について

分からなければ考えろ 6/7中国新聞「エール」より

「分からない」がM君の口ぐせだ。彼は算数が大の苦手。算数の出来は入試の合否を左右するから何とかしたい。勉強の大半を算数に費やしているが結果は出ない。授業後も残って勉強しているのにどうしてだろう。

彼の様子を見ていて、「なるほど」と納得がいった。彼は、「分からない」を繰り返し、質問ばかりしている。質問と言えば聞こえはいいが、ただその問題の解き方を教わろうとしているだけなのだ。自分で考えようとしない。すぐに音を上げる。

担当教師いわく、彼は「ゲーム攻略本型」だそうだ。攻略本とは、ゲームステージをクリアするために、戦い方やアイテムの集め方などをまとめたもの。そこに書いてある通りにやれば難なくゲームを進めることができる。

M君は解き方を知りたいだけで、なぜそうなるのかを考えていない。答えを出すことが勉強だと思っている。本質を理解していないので、少し問題が変わるだけで太刀打ちできなくなる。応用も利かない。

算数が好きな子は真逆の反応を示す。解けないで苦しんでいるときに教えようとすると、「言わないで!今考えているんだから」とくる。時には時間もかかる。だけど、この考えている時間が楽しいし、自力で解けたら面白い。自分でクリアしたいから、攻略本なんて要らない。

片やなんでも教わろうとし、片やとことん考えてみる。態度が根本的に違うのだ。「わからなければ質問しなさい」も時と場合による。どのレベルで止まっているのか見極めなければならない。1から10まで教わると、自分で考えなくなることがある。

森博嗣氏が著書『勉強の価値』で、「人から教えてもらおう、と考えることで、『学ぼう』という主体性の大半が失われてしまう。自分の頭で考え、自分で試し、自分で体験するという楽しみを放棄している」と説いていたが、その主張は的を射ている。「分からない」に対して「考えろ」も、時には立派な指導となるのだ。

マルだらけの答案 4/5中国新聞「エール」より

保護者には少しショッキングな話をしよう。

国語の授業でのこと。読解問題の解説をしていた。文章を読み返しながら答えを説明し、子どもたちに自分の答案にマル付けや直しをしてもらった。

ところが、ある子が正解を聞いてから、自分の答えを消して書き直し、赤ペンで〇を付けているのに気付いた。近寄ってみると、見事なまでのマルばかりの答案だ。薄い字で答えを書き、最初から消しやすいようにしてあるから手が込んでいる。

授業後、この子に話を聞いた。「どうして自分の答えを書き直すの?」「全部書き直していたら、どこをどう間違ったか分からないから復習できないよ」と話しても、黙ったまま。「間違えたところには×を付けようよ。勉強はそこから始まるんだから」と言うと、「大丈夫。間違いは覚えてるから。それに…✕が多いとお母さんに怒られるから…」との言葉が返ってきた。

✕が目立つと親から厳しく注意されるらしい。それが嫌でこんなやり方を身につけてしまったようだ。実を言うと、こういう子は他にもいる。

不正解に過剰に反応する親は少なくない。「どうしてこんなに間違いが多いの?」「ちゃんと考えているの?」などなど。わが子の答案にある✕が耐えられない。こんなことで受かるのかと不安で仕方がない。

心配の種は少ない方がいい。だが、間違えることはそんなにいけないことなのか?

子どもが伸びていくためには、成功体験と同じくらい、つまずくことが大切だ。✕から学ぶことは多い。同じ失敗を繰り返さないように努力すればいい。むしろ失敗から学べる場を作ってやるのが大人の務めではないか。親が自分の不安解消と目先の安心を優先すると前述のような子が出てくる。子どもの自己防衛の結果がマルだらけの答案なのだ。

いっぱい赤が入った答案のどこがいけない。それこそ努力の証しじゃないか。赤ペンを使ってゴシゴシ直しをしている子どもを育てよう。

中学受験の意味 3/1中国新聞「エール」より

広島都市圏の中学入試は松も明けぬうちから始まる。多くの受験生が第1志望とする「本命」の試験が集中する1月末まで、約3週間にわたる長期戦だ。

受験生はこの間、複数の学校を受験。まずは本番というものを知り、試験慣れしながら経験値を上げていく。ただ併願校とはいえ、その結果はメンタルに大きな影響を与え、プラスにもマイナスにも作用する。

Tくんの受験初日。前日から、はた目にも緊張が伝わり心配していたが、何とかA中学に合格。自信につながると思ったが、これが悪い方向に作用する。そう、初めて合格を手にし、浮かれてしまったのだ。その日から明らかに気が緩み、丁寧に学ぶ態度が消えた。彼は試験をなめた。

2校目のB中学は、すっかり緊張感をなくしたまま受けて不合格。両校とも第1志望ではないのに、合格と不合格という結果の間で彼の心は大きく揺れた。

このまま本命入試を迎えさせるわけにはいかない。T君を呼んで話をした。「なぜB中学は不合格だったんだろう」と問い掛けると、「ボク…真剣じゃなかった気がする…」。感心した。ちゃんと分かっている。「そうだな、君が不合格になるはずがない。心の隙を突かれた結果なんだろう。いいか、もう悔いは残すな」と背中を押した。

それからの2週間、彼は悔しさをバネに努力を重ねた。第2志望のC中学、第1志望のD中学の入試は目前に迫っていた。自分に「克つ」ことの大切さを知り、寸陰を惜しんで必死に闘う姿を見ていると、なぜか胸が熱くなった。

T君はC、D中学とも合格し、第1志望校への進学を決めた。彼は言う。「B中学の不合格がつらかったけど良かった気がする。だって、あれからスイッチが入ったから」。3勝1敗という数字に意味はない。B中学の1敗の痛みにこそ、成長につながる意味があったのだ。今日から3月。受験本番へ向けた新たな1年がもう始まっている。

「中学受験」~12歳 成長への通過儀礼

年明け早々、中学入試が開幕。とはいえ、この時期は前哨戦で、本命前の腕試しというケースが多い。ひとまず受験を体験し、実戦の勘を養おうというのだが、その割には前日から顔が引きつっている。

日頃、大人相手にどれだけ生意気な口をきこうとも、しょせんは12歳の子どもである。長い年月をかけて勉強してきた(全力投球したかどうかはおいといて)結果が問われる審判の場を前にして、心穏やかに、とはなかなかいかない。

なにしろ初体験である。あれやこれや親や塾の先生に忠告されても経験値がないため「実感」としてつかめない。ただ、「なんか、ヤバイ」という漠然とした危機感や焦燥感が日を追うごとに大きくなっていく。

これが二、三ヶ月前なら、「ま、いっか」で逃げていた彼らが、この時期にはもがき、あがく。体調が悪くても休まない。休憩時間も問題を解き、先生をつかまえてしつこく質問する。解けない問題を前に爪をかんで、ひざをゆする。時には出来の悪さに涙する。まさに寸陰を惜しみ、必死で戦う受験生の姿がそこにある。

こんな子どもたちをかわいそうと思う人もいるかもしれないが、僕はそんな子どもたちと出会うためにこの仕事をしていると言っても過言ではない。彼らの姿に成長のひとつの形を見るからだ。

痛みや苦しみを経験しなければ人は強くなれない。だが、現代は「純粋培養」され困難を経験しないまま大人になっていく子どもが増えている。受験は現代に残された数少ない通過儀礼のひとつではないか。受験を通して子どもたちは大きく成長していく。その成長は、受験=悪という図式だけにとらわれている人間には見えないものなのだろうと思う。

願わくば、努力と等価の結果を全員に与えてやりたいが、現実は必ずしもそうならない。いくら経験を積んでもこの非情さだけには慣れることはできない。

すべての受験生が悔いを残さず全力を尽くしてくれることを願ってやまない。

勉強への父助言 ~ 押しつけ禁物 焦らずに

「父親の出る幕なんてないんですかね?」と暗い顔をして話すのは小6のF君のお父さん。

いよいよ受験学年。だが、成績は低迷中。そこで「あと1年」を機に、わが子の勉強法を分析してみた。すると、問題点がいくつも出てきた。コレがいかん、アレが悪い、こうしてみろと忠告すると、「わかったから、ほっといてっ!」と子どもにそっぽを向かれてしまった。その上、奥さんにまで「よけいなことしないで」と非難され、へこんでしまったという。

実は、母子二人三脚で進めている受験勉強に、父親が加わると、こうした摩擦が起こりやすい。

摩擦の原因は明らかだ。親子関係には文脈がある。これまで母親と子どもの間で作ってきた親子関係は良くも悪くも「できあがって」いる。そこに父親が文脈を無視し、別の基準を持ち込んでくれば当然「きしむ」。慣れ親しんだ親子関係が不協和音を奏でる。

父親がわが子の教育にかかわることに何の問題もあろうはずがない。ただ、母子の関係と自分の役割を無視して飛び込むのは危険だ。

伸び悩む成績を前に母子が何もしていないはずがない。きびしいバトルが何度となくあったろうし、計り知れないほどの悔し涙も流されているにちがいない。

その背景を知らないまま、口出ししても的外れなアドバイスになりかねない。いくら理屈が通っていても、一方的に押しつけては当然はねつけられる。わかっていてもできないわが子の気持ちを察してやり、父親は敵ではなく味方であることを示してやらなければ、子どもは聞く耳を持とうとはしない。

要するに、ちょっとした気遣い、心配りのできる余裕を持って子どもにかかわればいいのだ。だが、子どもと接する時間の限られた父親の場合、そのわずかな時間で一気に解決をはかろうとするために、失敗してしまいがちなのだ。

焦りは禁物。たとえ子ども相手であっても、良好な関係を築くのに「即席」は利かない。

親の役目 ~ たたかう子どもを見守ろう

「私はわが子に纏足(てんそく)をしているのではないでしょうか」この言葉を聞いたとき、親業とはいかに悩み多きものであるかをあらためて実感させられた。

纏足とは、幼児期から足を布で縛り、足が大きくならないようにするという、かつて中国で女性に対して行われていた風習である。無理やり指を内側に曲げて縛り、歩行の自由を奪うこの奇習は、強制・拘束・制限の象徴と言ってよい。

「わが子に良かれと思ってやっていることも、実は纏足をするように無理を強い、苦痛を与えるだけの独りよがりな愛情なのではないか」。そう思い悩むお母さんの心の中は痛いほどわかる。

中学を受験させることが正しい選択であったのかどうか、途中何度も自問する親は少なくない。友達が元気に遊んでいるのを横目に見ながら塾へ行かせるとき、見たいテレビやしたいゲームを我慢させて机に向かわせているとき、成績が低迷して頭にきてひどく怒ってしまったとき、親は自分の選択に自信が持てなくなるようだ。

だけど心配ご無用。子どもはこの程度の選択でどうこうなってしまうほどヤワな生き物じゃない。挑戦や試練は子どもが成長していくために必要不可欠な要素。つまずいたり、ぶつかったり、すっころんだりして、痛い目に遭いながら、また立ち向かっていくことを繰り返すことで強くなっていく。勉強だけが特別なのではない。スポーツも音楽も芸術も本気でやれば好きだけじゃあやっていられない。つらいことは山ほどある。

親の役目はたたかう彼らをほったらかしにせず、見守って、いざというときに支えてやること、それさえしっかりしていればOKだと思う。

ただ、この選択の可否が合格と不合格という結果でのみはかられると考えるのなら、子どもにとってつらいばかり苦しいだけの纏足になる可能性はある。纏足にするかしないか、要は親の考え方ひとつなのかもしれない。

受験生 ~ 自分の弱い心と闘う

第1志望校の入試当日。試験会場で会ったA君の顔はややこわばっていた。無理もない。彼はこの学校に進学したくて長年勉強してきたのだ。

1時間目はA君の得意な国語。ところが思ったように解けない。その違和感は時間の経過と共に焦りへと変わっていった。結局、何が何だかわからないうちに1時間目の試験は終了。過去問演習でも一度もなかった大失敗。A君は一瞬「もうダメだ」と思ったと言う。

前日、生徒たちにこんな話をした。「1時間目の科目で大失敗をした。そんな時どう思う?」「へこむ」「やばい」「落ち込む」と口々に答える。「でもな、そこであきらめたらおしまいなんだよ。残る科目で全力を出し切るんだ。最後の1秒まで投げ出さないこと。悔いだけは残してくるな」そう言ってみんなを送り出した。

A君は休憩時間にそれを思い出した。悔しくて、情けなくて、もうやめたいけど、あきらめない!最後までやりきろう!と腹をくくった。

彼は全力を尽くすことだけ考えた。昼食は母親と二人で過ごしたが、「あと1教科。集中したいから」とだけ言って黙々とお弁当を食べて、教室へ戻っていった。

最後の教科算数が終了。A君はそのまま塾にやってきた。翌日、第2志望の受験が残っているので勉強したいと言う。彼の戦いはまだ終わっていない。

翌日、まだ試験を受けている最中に、第1志望校の合格発表。結果は合格。試験を終えてA君はすぐ報告にやってきた。

「国語で大失敗しけど、先生が言ったとおり、最後まであきらめなかった。あれが良かったんだね」そう言うA君の目は澄んでいた。

合格と不合格。受験にはその二つの結果しかない。だが、敵はライバルの受験生では決してない。自分に克つこと。逃げ出したくなったり、あきらめてしまいたくなったりする自分の弱い心と戦うことを学んで欲しい。そんな経験をさせることこそ大人の役目だと思う。